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ポケモンカードを配っていたステーキ屋さんの話から

ホッテントリに上がっていたTogetterのまとめ記事で、ポケモンカードを来店した子どもに配っていたステーキ屋さんの話を読みました。

フォロワーさんからもらった大量のポケモンカードを子どもたちに配っていたところ、大人が子どもに換金性についてアドバイスしたり、自分で持って行こうとしたりして、対応に疲れてしまったという体験談です。

togetter.com

このXの投稿についたコメントで、「最近子どもも流行りのシールとかで「レートが高い/低い」って言葉使ったりしててなんかちょっとモヤモヤしたりしますね」とあったのが自分の注意を惹きました。

昔の子どもたちは「レートが高い/低い」という言葉は使わなかったかもしれませんが、レートに相当する考え方はありました。遠足のおやつなどを交換するときにも、これとこれなら釣り合うという判断はありましたし、自分は世代ではないので詳しく知っているわけではありませんが、ビックリマンシールなどを交換する場合にもレートという考えはあったと思います。

つまり、子ども同士の小さな交換経済そのものは昔から存在し、物々交換であっても当然「相対価格」はあったわけです。現代で大きく変わったのは、それが外部の貨幣経済と接続する度合いでしょう。

東洋経済の次の記事でも、現在のシール交換について、希少性や入手難度や、それが自分にとってどれだけの価値があるかだけではなく、「どれくらいの市場価値があるか」という情報が非常に早く共有されていることが指摘されています。

toyokeizai.net

最初のステーキ屋さんの話に戻ると、大人が子どもに対して「それは高い値段がつくよ」と教えることは、それまで子どもに対する贈与や、子ども同士の物々交換であったものを、市場で換金可能な財として再定義する行為になってしまうわけです。

これ自体は良いとも悪いとも言えません。

昔の子どもの交換経済は牧歌的だったと懐かしむのには多分に感傷的なノスタルジーが含まれているでしょう。

なぜなら、市場価値を知ることがすなわち悪というわけではないからです。

例えば、目の前の財に、1000円という価値がついていて、どのようにその価値が決まるのか、それを生み出すためにどれだけの人がどれだけの報酬をもらって関与しているかと考えることは、世界の仕組みを理解するきっかけにもなります。

問題は、市場経済を子どもから隔離すべきか、ではなく、市場経済以外の価値体系を子どもが経験できる余地が残っているか、ではないでしょうか? 子どもが社会化するというのは、単に「大人からルールを教えられる」ということではなく、何を価値あるものとして感じるかという自分自身の判断軸を身につけることでもあります。

子どもの遊びの「市場化」が早い段階で進み、それが価値判断の経験を変えて行ったとき、贈与や友情など、別の価値判断にどのような影響があるのでしょうか?そしてその影響が長期的に私たちの社会にどのような変化をもたらすでしょうか?

自分は社会学や発達心理学は門外漢なので、これ以上実証的な問いに答えることはできませんが、次の問いは、我々の社会を考える上で重要だと思いますので、専門家にはぜひ研究してもらいたいと思います。

子どもは昔から小さな経済圏を作っていた。しかし、その経済圏がどの程度まで大人の貨幣経済から自律していたかは近年急速に変化した。その変化は、子どもが「価値」というものを学習する過程を変えているのではないか。

北方領土の地図上の表記について

www.sankei.com

この記事につけたブックマークコメントでも述べましたが、北方領土(択捉、国後、歯舞、色丹の4島)の地図上の表象について、日本とほぼ同じ立場なのは米国政府のみです。*1

https://www.sankei.com/article/20260909-MQY6BXVHA5LV7DWNN2FZEE5DRA/

イコールアース図法の提唱者、北方領土扱いは「名目よりも事実上」考慮 更新も排除せず

図法関係ないです。北方領土は多くの国の地図で「ロシアが実効支配(日露間で係争中)」という扱いです。日本を支持し日本と同じ色で塗り、1945年以降ソ連(ロシア)が占領中と注記しているのはほぼ米国(政府)のみです。

2026/09/10 10:50
b.hatena.ne.jp

政府が作成する地図には、その政府自身の行政上・外交上・地名標準化上のルールがあります。

米国政府はその公式な方針として、北方領土については日本の主権を支持し、日本と同じ色で塗り、“Occupied by the Soviet Union in 1945, administered by Russia, claimed by Japan”と表記することを公式な方針としています。(次のリンク先の文書を参照)

https://data.geodata.state.gov/guidance/DoS_Bulletin_32-Japan-2013.pdf

面白いのは日本の地名等に関する英国政府の方針です。下記の文書の8ページ目を見てください。

https://assets.publishing.service.gov.uk/media/698dca9e7149b335a315b342/Japan_factfile.pdf

Kuril Islands

The islands at the southern end of the Kuril Islands chain (44°30'N 147°00'E), i.e. those south- west of the Iturup Strait, are disputed between Russia and Japan. HMG’s position is that Russian-language forms should be used for all geographical names in the Kuril Islands; where none exists (e.g. Habomai Islands), English-language rather than Japanese-language names should be employed. Japanese-language names may be shown in brackets if desired and the descriptor ‘(administered by Russia, claimed by Japan)’ may also be shown. It should also be noted that Japan refers to these islands as the Northern Territories (and does not consider these islands to be part of the Kuril Islands); this name should not appear on HMG products.

北方4島に関し、英国政府は当該地域が日本とロシアの間で係争中としながらも、「北方領土 Northern Territories」という日本の主張する表記は政府発行の文書等では使わず、「クリル諸島 Kuril Islands」を用いることとし、当該地域の地名についてもロシア語名を使うとしています。

政府が作成する地図について、様々な地域がどのように扱われているかを次のように整理するとわかりやすいでしょう。

判断・評価の層 意味 北方領土について
1. 実効支配、行政管理 誰が現実に行政管理・法執行しているか ロシア
ここについてはほぼ全ての国において事実認識として争いがない。
2. 国際法上の地位・主権 誰に主権があると考えるか 「日露間で係争中」とする国が多い。
米国政府のみは日本の主権を明示的に認める。
3. 地図上の地名・歴史的表象 どの地名、歴史認識を地図に採用するか 国によってかなり違う。
英国はロシア語地名を標準とする。
米国は日本語地名を採用。

米国政府は冷戦時代に、ソ連による領土拡張を既成事実化させないという明確な戦略のもと、日本の主張を法的・外交的に強く支持するという方針を採用し、今日まで続いています。 それが、地図上の北方領土を日本と同じ色で塗り、日本語地名を採用するという方針に明確に現れています。

英国政府は、北方領土の国際法上の帰属には争いがあることを認めながらも、現在行政管理している国がロシアであることを鑑みて、地名等の地図上の表象はロシア語表記を使用するという方針だと理解できます。

なお、地図上の表象に関しては、北方領土に関する国際的世論を形成するため、日本政府が各国の地図を体系的に調査し、誤った表記の是正を各国に働きかけていたという事実が存在します。

特に重要なのが、1986年4月8日の衆議院内閣委員会での質疑応答です。(181・日笠勝之氏の質問と182・西山健彦氏の答弁)

第104回国会 衆議院 内閣委員会 第8号 昭和61年4月8日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム シンプル表示

これを見ると外務省は、

  • 1979年12月に世界各国の地図における北方領土の記載を総点検しその調査結果に基づき、1980年4月に在外公館へ誤った記載の地図について訂正を申し入れた
  • 実際にトルコ、インドネシアなど賛成してくれているケースもある
  • しかし各国の地図は必ずしも各国政府が作っているわけではないし、地図作成の基準もそれぞれ異なるため「事実上どこが占拠しているか」を基準に作るところもある
  • なかなか日本政府の望む形に改定するのは容易でない

と国会で説明しています。

これはある意味当然で、実効支配という現実を無視して日本の領土であるかのように地図を作成した結果、事情を知らない人が「ああ、ここは日本の領土なのだな」と思って現地に入れば、実際にはロシア(当時はソ連)の行政・法執行が及んでいる地域なので、実用上危険です。先ほどの答弁でも、日本の立場に賛意を示してくれたのは、米国、タイ、ブラジル、トルコ、インドネシアなど、特に親日的な国(あるいは特に外交上の利害が一致している国)だけだったことがわかります。*2*3

地図の色だけを見て、その国が主権を認めた/認めていないと短絡するのは危険で、北方領土の国際法上の地位については中立でも、第三国には第三国なりの「中立性の作法」があり、その作法にもかなり幅があると考えるのがよいでしょう。

この地図上の表象の話を掘っていくと、最近のトランプ大統領のマイブームである地図遊びと、それへのApple、Google、MapQuestなど民間業者の対応にもつながって興味深いので、時間があればまとめてみたいと思います。

*1:ブックマークコメントは修正しませんが、この記事を書くために少し調べたところでは、「米国のみ」ではなく、それ以外にも若干ある可能性はあります。

*2:ブラジルの場合、南米にあって北方領土とは地理的に遠いので、北方領土の近くに行く人がブラジルで作成された地図を参照する危険性はあまり考えなくても良いということもあるでしょう。

*3:トルコ、インドネシアについても、「日本の申し入れに賛成してくれた」とはあっても、実際に政府刊行物での表記の方針を変えたのか、また政府として民間の地図作成業者に働きかけたのかということろまではわかりません。

東京大学の対応について

東大の本部コミュニケーション戦略課は8日、J-CASTニュースの取材に対する回答で、本田氏による5日の投稿について次のように述べています。

東京大学、本田由紀教授に「注意」 彬子さま巡り「遺伝的要因のおそろしさ」と投稿→批判が殺到: J-CAST ニュース

www.j-cast.com

今般の本田教授のSNS上の投稿に関して、本人にその意図がなかったにせよ、差別的な発言という本学の基本的な方針にも反する社会からの受け止めが一定あったことを踏まえ、教育学研究科長から本人に対し、個人のSNS投稿についても十分考慮して行うよう注意をしたところです。

この文章をよく読むと、東大は次のように論点を分解した上で、二段階の判断をしたと見ることができます。

  • A:発言の内容・意図そのもの
  • B:その発言が社会でどう受け止められたか
    • 差別的・不適切な発言だと受け止める人が相当数いたという事実

そして、次のように判断したと理解されます。

  • Aについては大学として判断しない(実体的評価を公表しない)
  • Bについては大学教員の発言として、人権尊重・倫理という観点から看過するのは適切ではないため本人にSNSでの発信について注意する

Aについて評価しなかったことについては、一定の理解はできます。Aはさらに次のように分解できます。

  • A:発言の内容・意図そのもの
    • A-1
      • 「遺伝的要因のおそろしさ」という表現
      • 文脈上、特定の人々の属性を否定的・差別的に評価しているか
    • A-2
      • 麻生氏の縁故主義・皇室制度への関与という政治的評価
      • その主張に十分な根拠・論証があるか

東大が内容批判まで踏み込まなかったのは、まず、A-2に含まれる政治的見解を大学が評価するのは適切とは言えないからでしょう。 もし東大が「麻生太郎氏の皇室制度への関与を縁故主義と批判するのは不適切である」と判断していたら、それは大学が教授の政治的見解を審査することになります。それは思想・信教の自由の観点において許されないことでしょう。

もちろん、次のような疑問は湧いてきます。「政治的主張を評価しないというのはわかった。しかし『遺伝的要因の恐ろしさ』という表現は政治的主張とは切り離して評価できるのではないか」と。

確かに今回の東大の見解はその部分を曖昧にしていると言えます。

ただ、東大は全くそこを評価していないとも言い切れません。なぜなら東大は「本人にその意図がなかったにせよ」とわざわざ断った上で、「差別的発言だ」と認定することは避けながら「差別的発言と受け止められたこと」を人権・倫理上の問題として扱っているからです。

つまり、大学が「人権を尊重し、高い倫理観をもって行動する」という理念を掲げている以上、社会的反応は判断材料の一つに過ぎず、本来は発言内容そのものの評価になるはずです。「差別的な判断だったかどうかは大学として一切判断しない、しかし世間が差別的だと感じたので注意する」だと、そこに大学としての主体性は全くありません。東大ともあろう大学が世論のみで動くのでしょうか。そんなわけはありません。

今回、「Bについて適切でないので注意する」と表明した背景には、大学もA-1について問題視しているという事実がある(ただその実体的判断を公表することはしない)と見るべきであろうと思います。

自分の意見としては、本田氏自身の「解説」まで含めると、本田氏の説明には政治的主張と事実認定が混在しており、事実認定を含む以上、その根拠を示す責任があると思います。そして現状の説明では論証が極めて不十分だと思います。

これは大学教員の公共的発言における事実認定・論証の問題です。

大学はそこについて何か指摘をしても良かったのではないかと思わないこともありません。ただ、ここでも東大が踏み込まない理由は理解できます。大学が「本田氏の麻生氏に対する評価は根拠不十分である」と公式に認定したら、今度は東大が政治的論争の裁判官になってしまいます。これは大学の仕事ではありません。

全体として、今回の東大の対応は概ね首肯できるものだと思います。

本田氏の過去の言動から、

  • 自分が過去に他人を評価するときに採用した基準を、自分にも適用しているのか?
  • 事実として何を主張し、その根拠は何なのかを区別して語る、ごく一般的な学術的・知的誠実性を一貫しているか?

ということを問う意見はもっともですが、それは今回の東大の判断とは別のことだと思います。

「辺野古基地移設問題はもはや争点ではない」(地方選挙の「全国化」と)

「『辺野古移設はもう争点じゃない』沖縄知事選の陣営戦略、有権者の思いは」という記事を朝日新聞が掲載しています。

「辺野古はもう争点じゃない」沖縄知事選の陣営戦略、有権者の思いは [沖縄県]:朝日新聞

www.asahi.com

これに対しては「同志社高校の辺野古事故があったのでデニー玉城氏は争点化したくても争点化できないのだろう」という意見があるようですが、自分は違うと思います。なぜなら、デニー玉城氏側が藪蛇になることを恐れて争点化を避けたとしても、対立陣営が攻撃材料として争点化することは可能だからです。その動きもないのであれば、これは文字通り、もはや主たる争点ではないと考えるのが合理的でしょう。*1

ここには我々県外の人間にとってのフレーミングと、沖縄県民の設定するフレーミングは違うという問題があると思います。

沖縄知事選については、それに言及したSNS投稿の約9割が県外からの発信だという調査結果がありました。

【沖縄県知事選挙】SNS「X」の投稿の約9割は県外から 選挙戦への影響も | TBS NEWS DIG

newsdig.tbs.co.jp

しかし、これはある意味で当然です。

沖縄の基地問題は沖縄県だけの問題ではなく、日本全体の安全保障政策に直結する問題だからです。県外の人々が大きな関心を寄せて自分たちの考えをSNS等で発信するのは自然なことです。そして人口比からみれば、県外の人々の発信の比率が高くなるのも当然です。県外からの投稿が多いということだけをみて「異様なことが起きている」と結論することには慎重であるべきでしょう。

しかし地方選というのは、本来、その地方で生活する人たちの所得・雇用、子育て・教育、医療・福祉、産業政策等という、「自分たちの生活をどうするか」という選挙です。

一方、県外の人間が沖縄の知事選を見るときの窓は、ほぼ自分たちに関係する安全保障問題のみで、県内の経済政策や福祉政策などについては「自分ごと」としての関心を持たないでしょう。

ここには、我々県外の人間にとってのフレーミングと、沖縄県民の設定するフレーミングが大きく違っているという可能性があります。

兵庫知事選や川口市長選などについても言えますが、最近、地方選挙が全国的な価値観や政治的対立の代理戦争となっている状況がみられます。 これの怖いところは、実際の選挙区の住民が何を考えてどのように判断するかとは別のことろで、この選挙は何を意味するのかという全国的な解釈戦争が始まってしまうことです。

これは民主主義において少し厄介な問題でしょう。

すでに述べましたが、地方選挙は本来、「その地域の住民が自分たちの生活環境について意思決定する」という自治の問題です。 しかしそれが全国的なSNSに接続されると「その地方選挙の結果を、日本全体の政治的価値観の勝敗として評価する」という別のゲームが始まってしまう。自分たちの主たる関心に寄せて、「オールドメディアvs SNS」「移民政策」といった特定の文脈のみに注目し、ディテールを圧縮し、問題を単純化して敵味方に分け、分断を深めてしまうわけです。

これは日本だけの問題ではなく、他の国を見る場合についても言えることです。 ドイツの州議会選挙で、「極右」とされるAfDがドイツ東部のザクセンアンハルト州で43.8%を獲得して第1党になったと報じられました。

地方選挙を国政の体温計にすること自体は間違いではありません。これをドイツ全体の政治状況を判断する材料として見るのは当然です。しかしそれと「ザクセンアンハルト州の有権者がなぜAfDに投票したのか」は別問題です。つまり、

  1. その地域の政治を誰に任せるか
  2. その地域の有権者が国政についてどう考えているか

は別のことです。しかし、その地域外の人々が地方選挙の結果を見るとき、しばしば2だけに注目して1の判断に含まれるディテールを圧縮してしまいます。「ザクセンアンハルト州でAfDが勝利した=ドイツ国民が右傾化してAfDを選択した」という短絡的な読み方は正確ではありません。同様に「沖縄県知事選の結果=沖縄県民が日本の安全保障政策について示した民意」と捉えるのも正確ではありません。

しかし、県外者が沖縄知事選を見るとき、「日本の安全保障について自分はどう考えるか」というフレームを持ち込む。一方、沖縄県民は「基地負担をどうするか」「県政をどうするか」「経済や雇用をどうするか」「今後4年間を誰に任せるか」等々というフレームを持っている。そこで、県外者がSNS上で大量に発信すると、後者よりも前者が圧倒的に可視化され、その結果、たくさんある変数の一つでしかなかったものが巨大化して独り歩きし始めてしまう。

人間は複雑なものを複雑なまま取り扱うのが苦手で、複雑な事象を単純な二項対立に圧縮し、さらにそれを確証バイアスによって強化していきます。ローカルな選挙結果を、外部者が自分たちの政治フレームに回収してしまう場合にも同じ見方をしていないか、我々はよく注意しなければなりません。

*1:もしかすると、争点ではないというのは言い過ぎで、辺野古をめぐる政治的対立の熱量が低下し、建設反対が県政選挙の最大の動員軸ではなくなった、くらいの慎重さの方が良いかもしれません。

社会制度と「血・遺伝・DNA」(本田由紀氏の「解説」をめぐって)

東京大学院教授の本田由紀氏のツイートをめぐってネット上の議論が活発ですが、本田氏自身が発言内容を説明するツイートを行いました。

元の投稿の曖昧さを防御壁にして静観する構えかと思っていたので、このような「解説」を投稿したのは正直意外でした。内容については色々思うところがありましたが、特に注意を引いた点を書き残しておきます。

本田氏自身による説明

言葉の選択などについて色々な説明をしていますが、要は発端となったツイートは次のことを指しているということです。

  1. 「遺伝的要因の恐ろしさ」とは「自らと遺伝子を共有する血縁者を優遇しようとする麻生太郎氏の行為の問題点を指している」
  2. 「露出の増加が逆効果になるかもしれない」とは「三笠宮彬子女王やその妹の瑶子女王がマスメディアに露出するたびに、上記の麻生太郎氏のふるまいの問題点が想起され、視聴者は反発招くであろうと言うことを意味」

つまり、おそらくこう言うことなのでしょう。

  1. 彬子女王のメディア露出が増える
  2. 視聴者が彬子女王と麻生家との血縁関係を想起する
  3. 視聴者が麻生太郎氏の皇室制度への関与・「血縁者優遇」という問題を想起する
  4. 結果として、彬子女王の露出の増加は麻生氏に対する視聴者の反発を強める方向に働く

発端となったツイートはその真意が不明でしたが、ここまで補えば論理構造自体は理解でします。しかしこの論理を最初のツイートから読み取るのは困難でしょう。

読み取る者のルッキズムを露呈させているとの反論について

本田氏自身の言葉で「三笠宮彬子女王やその妹の瑶子女王がマスメディアに露出するたびに、上記の麻生太郎氏のふるまいの問題点が想起され」と説明している部分を、A. 「彬子女王のメディア露出が増える」とB.「視聴者が麻生太郎のふるまいの問題点を想起する」(A→B)にわけると、その間には当然に、C.「彬子女王を見た人が、その容貌等から麻生家との関係を想起する」という媒介項が必要です。(前項では2の部分)

本田氏は意図的なのか、意図的でないのかわかりませんが、この部分を明示していません。

しかし本田氏が引用したツイートは複数の人物の顔写真を並べています。その文脈上に、「この人たちを目にするたびに、遺伝的要因のおそろしさを感じる」という言葉を接続すれば、読者が「顔が似ている」 「遺伝によって身体的特徴が共有されている」という主張が含意されていると考えるのは極めて自然です。

むしろ、本田氏の釈明した論理を成立させるためにも、血縁関係が「見た目」によって想起されるという認識が必要になります。

なぜなら、本田氏自身の説明する因果関係、「彬子女王を見る」→ 「麻生氏を想起する」を成立させるためには、何らかの視覚的・社会的な手がかりが必要だからです。

もちろん、「彬子女王=麻生太郎の姪」という既知の知識だけでも想起は可能です。

しかし、一般の人が彬子女王を知る経路としては、「麻生太郎の姪」というより、「『赤と青のガウン』を書いた人」「オックスフォードに留学して博士号を取った皇族」「オールナイトニッポンに出た皇族」という人物像の方がはるかに重要でしょう。メディア露出が増加することによって形成された彬子女王の個人イメージは、麻生家の政治的イメージから相対的に切り離されている可能性があります。

しかも、元ツイートが顔写真を並べていることを考えると、「遺伝的要因」という言葉と写真の組み合わせからそれが身体的な血縁類似を指しているのだと読み取るのはごく自然です。

したがって、自身にはその意図がなく、逆に「読み取る者自身が有するルッキズムを露呈させている」という反論は極めて弱いと言わざるを得ません。

「麻生氏の縁故主義」という前提は正しいのか

本田氏の釈明は、「麻生氏は自分の血縁者に有利になるよう皇室制度を変更しようとしている」、という前提に立っています。これは発端となったツイートで引用された「りょう」氏のツイートに明示されているものです。*1

しかし、「麻生氏が皇室制度改革に関与している」ことと、「その目的が血縁者への利益供与である」ことは別の命題です。

りょう氏は「彬子女王への皇族費増額は麻生家による縁故的利益供与」であると批判し、麻生家による天皇家乗っ取りという非常に強い政治的・血統的な物語を構築しています。

ここには次の推論があると思われます。

  1. 麻生氏は皇室制度改革に関与している
  2. 彬子女王は麻生氏の血縁者である
  3. 制度改革によって彬子女王の皇族費が増える
  4. よって麻生氏は血縁者を優遇している

しかし、3→4は明らかな論理の飛躍です。

なぜなら、男女の皇族費を同額にすること自体は、現代の日本社会におけるジェンダー平等の規範からすれば、むしろ自然な方向だからです。「男性皇族だから多く、女性皇族だから少ない」という制度を維持する方が、現代の感覚からすれば説明困難でしょう。

つまり、りょう氏も本田氏も、制度変更のジェンダー平等という説明可能性を丸ごと飛ばして、縁故主義という説明を採用しているわけです。これは極めて強い政治的バイアスのかかった解釈です。

皇族費増額を「さもしい」、あるいは皇族費が多すぎると批判するのであれば、皇族費の妥当性や算定根拠、女性皇族だけでなく制度全体でどう設計すべきかという議論へ進むのが真っ当な方向性であると自分は思いますし、麻生氏の縁故主義によって今回の皇室典範改正が行われたかどうかは皇族費の増額からは推論できず、別途検証されるべきものでしょう。

麻生氏は親族が皇族関係者であるので、政治倫理・公正性の観点からの「利害関係者による制度設計への関与」という面で、皇室制度改革に関与すべきではなかったという批判ならば理解できます。自分もそう思います。 さらにこれは国会ではなく「皇室会議」についてですが、皇室典範36条には、「議員は、自分の利害に特別の関係のある議事には、参与することができない。」と明文で規定されているということもあります。

e-Gov 法令検索

しかし繰り返しになりますが、麻生氏が具体的に制度を歪めたかどうかは別の話です。その論証を十分に行わないまま、麻生氏が個人あるいは一族の利益を念頭に国の制度設計を歪めたかの如く言うのは誹謗中傷と言われても反論できないでしょう。

「血統」という社会制度上の概念を、生物学的な「血・遺伝・DNA」と混同すること

自分自身は、旧宮家から養子を迎える案には反対ですが、旧宮家系の男系男子を養子に迎える案の正統性は、「36~38親等離れた人に現皇族とのDNA上の近さが残っているから」という話ではなく、「皇統に属する旧宮家の男系子孫として、公的な系譜・皇族制度上の連続性が確認できる」という制度・系譜上の論理として理解した方が正確であるとの認識です。

これは現在の皇室についても「血統」は生物学的事実そのものではなく、法制度によって定義・認定された系譜関係としてその正統性を保証すると考えるのと同じです。

生物学的事実

  • 親子関係がある
  • DNAを共有している

と、

制度上の事実

  • 皇統に属する
  • 皇族である
  • 皇位継承資格がある

は別のものです。後者は前者を基礎としている部分がありますが、前者だけから自動的に後者が導かれるわけではありません。

極端な例ですが、仮に天皇の「ご落胤」がどこかに見つかったとします。(あくまで譬え話なので今上天皇を誹謗中傷しているとか言わないでくださいよ)DNA鑑定で「実はこの人物は天皇の実子だった」と判明したとしても、それだけで直ちにその人が皇族になったり、皇位継承資格を取得したりするわけではありません。皇室制度上の認定・法的手続きが必要です。

逆に、皇族についても、個々の構成員が毎回DNA鑑定を受けて「皇統上の血が確認された」から皇族なのではありません。

2000年近く遡れば、一般的な遺伝学の意味では、特定の祖先から受け継いだDNAが現在の個人にどれだけ残っているかは極めて不確実です。理論上は、特定の祖先からゲノム上のDNAをまったく受け継いでいないこともあり得ます。*2

つまり、「血統」「血縁」「血筋」というのは社会制度の話です。しかし、興味深いのは実際の議論では右派・左派を問わず、しばしばそれが「遺伝子」「DNA」という生物学的な言葉に置き換えられてしまうことです。

つまり、「血筋」を政治的・社会的な関係として語る際に、それを生物学的な「遺伝」に置き換える癖が、日本の皇室論・皇位継承論には左右双方にかなり広く存在するということです。

ここには、「血統」という社会制度上の概念を、生物学的な「血・遺伝・DNA」と混同するという、かなり根深い認知的傾向があるように思います。

「男系」の支持者がその正統性を主張するとき、Y染色体の継承の一貫性という意味まで持ち込むと、それは制度論とはかなり別の話になります。

そして反対側が、「そんな遠い親戚とのDNAの継承は不確実である」と応じても、実は同じ土俵に乗ってしまっています。

そしてこれは、本田氏の今回の発言を考えるうえでも面白いところです。

本田氏は「遺伝的要因」を「血縁」の意味で使ったと説明しましたが、「血縁」を「遺伝」という語で表現すること自体が、政治的・社会的な関係を生物学的関係と混同するものであり、皇室・皇統というテーマでは特に強い含意を帯びてしまう。

だからこそ、今回の「遺伝的要因」という言葉は、単なる「言葉選びの問題」以上に、読者に生物学的な意味を想起させやすかったのではないかと思います。

*1:本田氏はりょう氏のツイートの内容について具体的な論評はしていませんので、「りょう氏と同じ前提に立っている」と断定することはできません。しかし、引用して自分のコメントを付けるという行為自体が、少なくとも投稿全体の問題意識に共感していることを示す強いシグナルではあります。

*2:親が配偶子を作るたびに、1. どちらの相同染色体を受け取るかがランダムに決まる、2. さらに、相同染色体同士が交叉してDNA断片を交換する、という現象が起きます。これにより、平均的には、n世代前の祖先から受け継ぐDNA量は、おおむね1 / 2ⁿと算出されます。これは10世代前で0.1%です。なお、それは「必ず0.1%持っている」と言う意味ではありません。親が配偶子を作るたびに、祖先由来のDNA断片がどんどん細切れになっていきます。そしてある世代では、受け継げる「ゲノムブロックの数(約100〜150個)」よりも「祖先の数(10世代前で1,024人)」の方が圧倒的に多くなるため、鳩の巣原理により、必然的に一度も選ばれなかった祖先のブロックが多数生じる=ある直系祖先の遺伝子を全く受け継いでいないと言うことが起こります。

gcbias.org

SPYxFAMILY 第140話のハンドラーのセリフから

SPYxFAMILYの第140話でハンドラー(シルヴィア・シャーウッド)が印象的なセリフを話していました。

[140話]SPY×FAMILY - 遠藤達哉 | 少年ジャンプ+

人間の脳はよく出来ている
燃費が悪いゆえ思考を短絡化して省エネを図る
だがその省略は往々にしてバイアスまみれだ
世界を自分の理解の範疇に収めることで認知的負荷から逃げようとする
改めて言うまでもないが
我々の仕事は"相手を悪と決めつけて討ち倒すこと"じゃない
対象である敵性勢力が何を考えているのか・実際に何を語り・何を行ったのか
そもそも敵なのか
何を持って敵とするのか
あらゆる角度から物を見て
あらゆる角度からそれを自ら反証しろ

情報部の人間ならば脳の怠惰を一瞬たりとも許すな!

「そもそも敵なのか」ーフレーミングそのものを疑う

個人的にはこのハンドラーのセリフで最も重要なところだと思います。

セリフの前半部分は「ヒューリスティック(heuristic)」によって発生する「確証バイアス(自分の仮説を支持する情報を探し、反証する情報を軽視する)」「基本的帰属錯誤(他人の行動を、その人の性格・本質によって説明しすぎる)」などのことを言っていると思われます。

人間は世界の中で起きるあらゆる事象をその複雑さのまま受け取っているわけではありません。あらかじめ自分の持っている世界観、世界像に整合する形に変換して物事を理解しようとします。その方が楽だからです。自分が対峙している相手を、自分の世界観に基づいて敵味方に分けるのは楽でたやすい。

「敵のイメージ(enemy image)」という政治心理学上の研究領域があるそうです。 ocw.ui.ac.id/pluginfile.php/14589/mod_resource/content/1/Introduction to Political Psychology %283rd Ed%29.pdf

敵を「本質的に邪悪で、攻撃的で、こちらに害を与えようとしている存在」と見ると、相手の行動をほぼすべて悪意によって説明してしまう傾向があります。政治心理学では、こうした敵のイメージが政策選択肢を狭めることも論じられています。だから情報部員は簡単な説明に頼らず、具体的なディテールを徹底的に調べろとハンドラーは戒めるわけですね。

ただ、そこで終わらないのが今回のセリフで重要なところで、ハンドラーは「そもそも敵なのか」と問い掛けます。つまり、結論について批判的に検討しろというだけでなく、問題設定をそのものを疑えと言っているわけです。

往々にして右派の人々は左派を、左派の人々は右派を敵とみなして攻撃します。しかし、彼らは本当に敵なのでしょうか?敵とはなんでしょうか?

「何を持って敵とするのか」、つまり「敵」というラベルを貼る前に、「敵」というラベルの意味を定義しろとハンドラーは言う。われわれに誰かを敵だと思わせるものは何か、そしてその何かは本当に正しいのか。我々の世界の見方は正しいのか、それ以外の見方の可能性はないのか?

これは科学的方法論で言えば、仮説そのものへの懐疑、あるいはもっと大きく捉えてパラダイムそのものへの懐疑と言っても良いでしょう。政治学・政治心理学・国際関係論としても重要な考えだと思います。

「あらゆる角度からそれを自ら反証しろ」ーポパー的反証主義

作者の遠藤達哉先生は明らかにカール・ポパーの反証可能性を念頭に置いていると思います。

ポパーの有名な考え方では、科学理論とは「証明して正しいとするもの」ではなく、反証される可能性を持ち、厳しいテストにさらされるものです。科学的テストは理論を確認するためだけでなく、むしろ反証しようとする試みだとされます。

ハンドラーは、「反証しろ」と命令する。これは単なる「公平な目で見ましょう」ではありません。むしろ、 人間は放っておくと確証バイアスに陥るので、意識的に逆方向の認知操作を行えと言っているのです。

そして「SPY×FAMILY」という作品全体を考えると、この一連のハンドラーの言葉はさらに興味深いと思います。なぜなら、この作品自体が東国/西国、敵/味方、スパイ/一般人という二分法そのものを繰り返し相対化し越境してきたからです。

愚痴

はてなブックマークでこのエピソードについたコメントをみると、あまりハンドラーのセリフに反応している人が少なくてとても残念に思いました。SNS上でくだらない敵認定と確証バイアスに基づいた批判ばかり繰り返している人々に毎朝百遍くらい声に出して読ませたいのですが。

日本における飲酒運転はなぜ減少したのか

はてなアノニマスダイアリーに次のような投稿がありました。

anond.hatelabo.jp

この投稿に対しては否定的なコメントが多いようですが、実際のところどうなのか調べてみました。

概要

飲酒運転発生件数の減少は「厳罰化」という一つの政策の成功というより、犯罪をする機会を減らし、発覚確率を上げ、社会的正当化を困難にし、さらに法的・社会的コストを可視化するという、多層的な抑止システムを構築した成功例と見る方が実態に近い。

「厳罰化が犯罪を減少させた」という推論では、刑罰以外の抑止メカニズムを全部見落としてしまう。

飲酒運転に関する法改正のポイント

詳細は飲酒運転に関する主な法改正の流れをみてください。飲酒運転規制に関する特に重要なポイントは以下になります。

  1. 2001年法改正:「危険運転致死傷罪」の導入(飲酒による死傷事故を重く処罰)
  2. 2002年法改正:飲酒運転そのものを広く・重く処罰(厳罰化)
  3. 2004年法改正:検知拒否の厳罰化
  4. 2007年法改正:酒酔い運転・酒気帯び運転に対する罰則を強化するとともに、「飲酒運転を助長する行為そのものを処罰する」 という考えが導入された(車両提供者、酒類提供者、飲酒運転をすると知りながら同乗を要求・依頼した者に対する罰則を新設)
  5. 2011年改正:運送業者(バス・トラック・タクシー等)の点呼時におけるアルコール検知器使用による酒気帯び確認を義務化(機会削減型の施策)
  6. 2022〜23年:一般事業者についても酒気帯び確認を義務付け

つまり、2002年改正は明らかに刑罰の重さ(severity)をあげていますが、2004年は発覚・処罰の確実性(certainty)を上げる法改正となっており、2007年以降は飲酒運転を成立させる周囲の環境にも介入するという方向に規制が進んでいます。

法改正と飲酒運転検挙数、飲酒死亡事故件数との関係

交通事故総合分析センターの交通統計や警察庁の警察白書から飲酒死亡事故の件数、飲酒運転(酒酔い及び酒気帯び)検挙数を調べて、主な法改正との関係を示したのが次のグラフです。

データ: 免許保有者、交通事故件数、飲酒運転検挙数、飲酒運転事故数 - Google スプレッドシート

飲酒運転検挙数、飲酒死亡事故件数

これを見ると興味深いことがわかります。

  • 飲酒運転検挙数に関しては2001-2002年の改正法施行による厳罰化より前の1999年から2001年にかけて大きな減少トレンドがある
  • 飲酒死亡事故に関しても2000年から2002年にかけて大きな減少トレンドがある。
  • 2004年から2005年にかけて一旦減少傾向が緩やかになった後、2007年の法改正前に検挙数及び死亡事故ともに大きな減少トレンドがある。
  • 2007年の改正道路交通法施行及び2011年の事業所による酒気帯び確認の義務化以後、長期的に減少トレンドが継続している。

これらの動きは厳罰化だけでは説明できないと考えるのが合理的でしょう。

メディア報道が社会規範に与える影響

興味深い研究があります。

"Effects of high-profile collisions on drink-driving penalties and alcohol-related crashes in Japan"

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/21177665/

この論文は、日本の1995~2008年の月別警察データを使って、1999年の東名高速飲酒運転事故と2006年の福岡事故を分析しています。研究者が特に検証したのは、

飲酒運転を伴う事故の割合が、社会規範やハイプロファイル事故後の運転行動の変化により、法改正前に減少し始めた。

To test the hypothesis that the proportion of crashes involving drink-driving started to decline before the law amendments, because of changes in social norms and driver behaviour after the high-profile crashes.

という仮説です。

結果はかなり興味深く、先ほど見てきたように、1999年の事故後、2000年の法改正を待たずに、飲酒運転が関係する死亡事故の割合に統計的に有意なトレンド変化が発生していました。

論文の結論も、

メディアによる大規模事故の報道、続く啓発キャンペーンや社会的議論が、社会規範と運転者の行動を変化させ、厳罰化以前から飲酒運転を減少させた可能性がある。

Media coverage of high-profile crashes, and subsequent publicity campaigns and debates might have altered social norms and driver behaviour, reducing the proportion of alcohol-related crashes before the introduction of more severe penalties for drink-driving.

としています。

また、日本については「社会規範が変わった」という研究もあります。

"Are lower legal blood alcohol limits and a combination of sanctions desirable in reducing drunken driver-involved traffic fatalities and traffic accidents?"

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/9006640/

1996年のDeshapriya & Iwaseの研究ですが、1970年代から1990年代までの日本のデータを分析して、1970年代以降、日本では法定アルコール濃度の引き下げ、刑罰の強化、警察による取り締まりの強化、政府のキャンペーンや広報・啓発活動により、日本社会における飲酒運転への「許容度」が大きく変化したとしています。

結局何が効果的だったのか

犯罪の抑止を考える時、刑罰を単純に「重い・軽い」で考えるのはかなり粗い議論です。少なくとも以下の変数を区別する必要があります。

  • certainty:捕まって処罰される確実性
  • severity:処罰された場合の刑罰の重さ
  • celerity:犯罪から処罰までの速さ

そして国立司法省研究所(NIJ: National Institute of Justice)(米国司法省(DOJ)の司法計画室(OJP)に属する、犯罪対策や刑事司法に関する研究・開発・評価を行う政府の公式な研究機関)によれば、捕まって処罰される確実性(certainty)は刑罰の重さ(severity)よりはるかに重要で、罰則の厳しさを高めても犯罪抑止にはほとんど貢献しないとしています。

nij.ojp.gov

米国の犯罪学者ドナルド・クレッシーは、ホワイトカラーによる「横領犯罪」を研究する中で、「不正のトライアングル」というフレームワークを提唱しました。これは個人が不正に走る行為を以下の3つの観点からモデル化したものです。

  • 動機 - 不正行為を働くことに至った事情
  • 機会 - 不正行為の実行を容易に可能にする機会や環境の存在
  • 正当化 - 働いた不正行為に対し、自らを納得させる身勝手な理由付け

飲酒運転の撲滅に対してどのようなアプローチが取られたのかは、この不正のトライアングルで理解するのがわかりやすいでしょう。*1

不正のトライアングルを援用した日本の飲酒運転対策の整理

要素 施策 主な作用
動機・期待コストに働きかける ・厳罰化
・取締り強化
・懲戒免職等の報道による非公式・組織的制裁の可視化
発覚・処罰の期待コストを上げ、飲酒運転を行う動機を崩す
機会を潰す ・酒類提供者への罰則
・事業所による酒気帯び確認
・車両提供者、同乗者などによる制止
・ハンドルキーパー制度
飲酒状態で運転すること自体を物理的・社会的に困難にする
正当化を潰す ・メディア報道による社会規範の醸成
・被害者・遺族による発信
・「飲酒運転は犯罪」という教育
・飲酒運転に対する社会的非難の形成
「少しくらいなら大丈夫」「事故を起こさなければ問題ない」等の自己正当化を困難にする

特に注意を引くのはハンドルキーパー制度が始まったのは2006年で、翌年の道路交通法改正では酒類提供者・車両提供者・同乗者への罰則強化が行われたと言うことです。つまり2000年代後半の日本では、「飲酒運転した本人を厳しく罰する」だけではなく、「周囲が飲酒運転をさせない」という方向に政策の重心がかなり移っていった、と見ることができます。

そして重要なのは、悲惨な事故とそのメディア報道が「飲酒運転は許されない」という社会規範を醸成し、厳罰化の前に死亡事故件数と検挙件数の減少トレンドを生み出している点でしょう。

日本の飲酒運転の減少は、2002年・2007年の厳罰化という単一の政策によって説明するよりも、重大事故を契機とした社会規範の変化、取締りの強化、刑罰・行政処分の強化、酒類提供者等への介入、事業者による管理などが、異なる経路から相互補完的に作用した結果と考える方が、時系列データとは整合的です。

飲酒運転のケースは、犯罪抑止を考える際に、「人を罰する」だけではなく、「犯罪が成立する環境そのものを変える」ことと「犯罪を社会的に許容しない規範を作る」ことが非常に強力な政策手段になり得ることを示す好例だと思います。


付表1:飲酒運転に関する主な法改正の流れ

年 主な変更 意味
1960(昭35) 旧・道路交通取締法を全面的に改定し現行の「道路交通法」が成立。「酒酔い運転」の禁止・罰則を明記。 飲酒運転規制の出発点
1964(昭39) 酒酔い運転を処罰。6月以下の懲役または5万円以下の罰金
1969(昭44) 酒酔い運転の罰則を1年以下の懲役または5万円以下に引上げ 初期の厳罰化
1970(昭45) 酒気帯び運転を新たに処罰対象に。3月以下の懲役または3万円以下の罰金。酒酔い運転も2年以下に引上げ 従来の「酒酔い」に加え、一定以上のアルコールを体内に保有して運転する「酒気帯び運転」を新たに禁止・処分対象に
1978(昭53) 酒気帯び運転の罰則化(刑事罰) それまで行政処分の対象中心だった酒気帯び運転に対し、刑事罰(懲役・罰金)を導入
1987(昭62) 酒酔い、酒気帯び運転の罰則を引き上げ 酒酔い:2年以下・10万円以下、酒気帯び:3月以下・5万円以下
2001(平13) 危険運転致死傷罪を新設(刑法)
酒気帯び基準値の引き下げ
・東名高速事故(1999年)等を受け刑法改正で「危険運転致死傷罪」を新設。
・酒気帯びの基準を呼気1Lあたり0.25mg以上から0.15mg以上へ引き下げ。
2002(平14) 大幅な厳罰化。酒気帯びの基準値も引下げ 現在の制度につながる大転換。
酒酔い・酒気帯び運転の懲役年数・罰金額が大幅強化。(酒酔い運転は一発で免許取消対象に)
2004(平16) 飲酒検知拒否の罰金を5万円以下→30万円以下 検査逃れへの対策
2007(平19) さらに大幅な厳罰化+酒類提供者・車両提供者・同乗者等を処罰対象に 福岡市海の中道大橋事故(2006年)を受け、車両提供者・酒類提供者・同乗者に対する処罰を新設。酒酔いの最高刑が懲役5年・罰金100万円に引き上げ。
「飲酒運転をする人」だけでなく「飲酒運転をさせる環境」を規制
2009(平21) 行政処分(違反点数)の強化 欠格期間の上限が最長10年に延長。酒気帯び運転(0.25mg以上)の違反点数が25点となり、一発で免許取消となるよう厳格化。
2011(平成23) 緑ナンバーへのアルコール検知器義務化 運送業者(バス・トラック・タクシー等)の点呼時におけるアルコール検知器使用による酒気帯び確認を義務化。
2013–14(平25–26) 自動車運転死傷行為処罰法を制定。(危険運転・過失運転等を整理) 悪質事故に対応するため刑法から独立させる形で新法を制定。飲酒や薬物による事故の刑事責任をさらに体系化。
2022–23(令4–5) 白ナンバー企業への検知器確認義務化 千葉県八街市事故(2021年)を受け、一定台数以上の白ナンバー車を保有する一般企業に対しても、アルコール検知器によるチェックを義務付け。

付表2:飲酒運転に関する罰則の変化

改正・施行年 酒酔い運転:刑事罰 酒気帯び運転:刑事罰 酒酔い:基礎点数・行政処分 酒気帯び:基礎点数・行政処分 主な変更
1960(昭35) 道交法制定 6月以下の懲役または5万円以下の罰金 罰則なし 点数制度なし 点数制度なし 酒気帯び運転を禁止。ただし刑罰は酒酔い運転のみ
1964(昭39) 1年以下/5万円以下 罰則なし ― ― 酒酔いの懲役上限を6月→1年
1969(昭44) 1年以下/5万円以下 罰則なし 9点 ― 点数制度開始。酒酔い9点
1970(昭45) 2年以下/5万円以下 3月以下/3万円以下 12点・免停 6点・免停 酒気帯び運転を罰則対象化
1978(昭53) 2年以下/5万円以下 3月以下/3万円以下 15点・免許取消、欠格1年 6点・免停 酒酔いを一発取消しに
1987(昭62) 2年以下/10万円以下 3月以下/5万円以下 15点・取消1年 6点・免停 刑事罰を引上げ
2001(平13) 2年以下/10万円以下※ 3月以下/5万円以下※ 15点 6点 危険運転致死傷罪を新設(12月25日施行)
2002(平14) 3年以下/50万円以下 1年以下/30万円以下 25点・取消、欠格2年 0.25mg/L以上:13点・免停90日/0.15~0.25未満:6点・免停30日 罰則・点数を大幅強化、酒気帯び基準を0.25→0.15mg/L
2004(平16) 同じ 同じ 同じ 同じ 飲酒検知拒否の罰金を5万円→30万円
2007(平19) 5年以下/100万円以下 3年以下/50万円以下 25点・取消2年 13点/6点 酒類提供者・車両提供者・同乗者等を処罰対象に
2009(平21) 同じ 同じ 35点・取消、欠格3年 0.25以上:25点・取消、欠格2年/0.15~0.25未満:13点・免停90日 行政処分を大幅強化
2022~23 同じ 同じ 同じ 同じ 事業所の安全運転管理者による酒気帯び確認・検知器使用を強化
2026(令8) 5年以下の拘禁刑/100万円以下 3年以下の拘禁刑/50万円以下 35点・取消、欠格3年 0.25以上:25点・取消2年/0.15~0.25未満:13点・免停90日 酒酔い運転に呼気0.5mg/L以上の数値基準を追加(7月21日施行)

※2001年については、酒酔い・酒気帯びの通常運転に対する道路交通法上の刑罰自体はまだ1987年改正後のものです。2001年12月に別途、飲酒等により正常な運転が困難な状態で死傷事故を起こした場合の危険運転致死傷罪が刑法に新設されました。警察庁も2001~02年を一連の悪質・危険運転者対策として整理しています。

*1:不正のトライアングルは、本来は「犯罪一般」のモデルというより、横領などの職業的不正を説明するモデルのため、この整理はやや比喩的です。